孫堅ってどんな人?
孫堅とは中国の三国時代(西暦200年くらい)の呉国の初代皇帝・孫権のお父様です。俗に堅パパ。知ってる人にとっては有名な人物ですので、詳しい説明はwikpediaや呉書を紐解いたページを参考にしてください。ここでは、こういったページを参考に、自分の中で培っている孫堅像を紹介します。
性格
孫堅は面倒見がよく豪胆・勇敢で多くの人の信望を集めたと伝えられています。さらにめっぽう戦に強く功名心が高かったため、天下統一の可能性すらあった人物です。しかし命知らずで軽率な行為が多く、(これらは多くの功名に結び付いたのも事実ですが)最後の頓死に繋がってしまいました。実はそれまでにも何度も死にそうになっており、やや必然だったかもしれません。
- 17才の時、逃げる海賊達を1人で追撃した。(首を取り、無事生きて帰った)
- 黄巾族討伐の時、深入りしすぎて負傷し、草むらで気を失った。(愛馬が同僚に負傷を伝えることができ助かったらしい)
- 反董卓連合戦の時、董卓軍の猛攻を受け数十騎とともに包囲された。(祖茂が身代わりとなり切り抜けた)
- 劉表の籠る襄陽包囲時、単騎で偵察に出たところを襲撃され討死。(流れ矢にやられたとも、落石で死亡したとも伝えられる)
業績
孫堅は創業前に死んでしまったため数は少ないですが、以下2点を業績として考えられると思います。
- 悪政者・董卓滅亡の遠因を作る
- 孫呉の礎を築く
孫堅は反董卓連合戦の中で主戦となり、唯一董卓軍を撃破、懐柔も突っぱね、董卓の長安遷都に繋がっています。この事実は孫呉政権にとって大きな名声となるとともに、董卓が求心力を失う大きな一手になりました。なお、同時期の曹操は寡兵で突貫するも壊滅させられており、孫堅は曹操を大きくリードしていたと言えます。この戦に限らず孫堅は勝ちまくり、声望を元に軍閥を構成します。このメンバーには、後々活躍する程普・朱治・黄蓋・韓当らも含まれており、孫呉の礎となったと考えられます。
能力
光栄式項目で評価したいと思います。
統率力
董卓軍の撃破時、孫堅は数万人以上の兵を統率していたと考えられます。しかもこれらは他の太守を謀殺するなどやや無茶な方法でかき集めた兵であり、心服していなかった可能性も高いです。これらを束ね合わせ、呂布や華勇等の部隊を打ち破った孫堅の統率力は抜群でしょう。90台は確実と考えられます。
武力
常に陣頭に立って戦い、海賊の首を打ったり、病気と偽って相手を直接斬ったりと、武勇に自信があったことは間違いありません。ただし、個人的武勇に関する記述は少なく、明確な強さは分かりません。80台以上ではある、という評価が妥当ではないでしょうか。
知力
三国志の記述をみると、孫堅の智謀や判断力の高さが読み取れます。例えば、董卓の危険性に早い段階で気づき処刑すべきと進言したり(事実その通りでした)、担当範囲外の反乱を「国家のための行為なので罰せられない」と判断して討伐したり(予想通り罰せられず)、大量の兵を持つ太守を謀殺し兵を奪ったり(これにより董卓戦の活躍に繋がる)といった点が挙げられます。孫堅軍はワンマン経営であった可能性が高く、また目立った参謀がいないため、これらは孫堅自身の考案であると考えると、(軽率な行為も多く90台の評価は難しいですが)80台以上と判断できます。
政治力
立身出世を第一に考えた滅茶苦茶強い軍指揮官というイメージであり、政治力は判断しかねます。さらに、政治力に長けた部下を採用した記録もなく、政治的な統治は苦手なタイプだったように考えられます。辛口かもしれませんが、50台以下と判断できるのではないでしょうか。余談ですが、孫策は父のこの部分を反面教師にしたのか、張コウや張昭といった名士を配下に加えており、江東の早期支配につなげています。
魅力
史書には孫堅は面倒見がよく皆がこぞって配下についたと書かれています。弱い者に対する暴力や略奪といったイメージは皆無で、最終戦を除き大義のために戦い勝っており、窮地には部下が身代わりになるなど、相当のカリスマがあり、魅力的でなかったはずがありません。90台以上と考えられます。
総じて以下が自分の評価です。
- 統率力:90台
- 武力:80台~90台
- 知力:80台
- 政治力:~50台
- 魅力:90台
孫堅生存if
孫堅が死なず、劉表を撃破していたらどうなったか考察(妄想)してみました。
劉表撃破~袁術と決別
- 192年、孫堅軍、劉表軍を撃破し襄陽に入城。
- 同年、袁術、孫堅でない別の人物を後任の襄陽太守に据える。孫堅は不満を持つも袁紹・袁術を両方敵に回すことはできず南陽に撤退。
- 193年、袁術・孫堅連合軍、匡亭にて袁紹・曹操連合軍と衝突、孫堅が緒戦を制すも袁術陣営が崩され敗走、荊州に逃れる。
- 同年、袁術、孫堅に命じて荊州の残党を討伐させ、再び別の人物を太守に据える。
- 同年、孫堅、曹操の徐州虐殺により荊州に逃れてきた張コウ等の知識層を配下に加える。
- 194年~196年、孫堅、江東に侵攻し全域制圧、半独立状態となる。
- 197年、袁術、荊州で帝位を僭称。孫堅、これを糾弾し独立。
孫堅のネックは政治力のある配下の確保であり、それまでは袁術の下で使われてしまうことと思います。孫呉政権に参入した知識層はほとんどが曹操の徐州虐殺をきっかけに避難したと考えられ、孫堅が193年以降にこれらの人材を確保することができれば、孫策と同様に江東に侵攻、独立を企図できるものと考えました。ほとんど孫策の流れと一緒ですが、孫策がいるため孫堅は最前線に立たなくてもよいこと、袁術が豊かで堅牢な荊州で帝位を僭称していることが違いです。
袁術と決別~袁術滅亡
- 198年、孫堅、袁術と戦闘開始。
- 199年、袁紹・袁術と連合し曹操の挟撃を画策。曹操、孫堅と連合する。
- 200年、孫堅、赤壁の戦いで袁術を撃破。曹操、官渡の戦いで袁紹を撃破。
- 201年~207年、孫堅、袁術を滅ぼす。曹操、袁紹を滅ぼす。
荊州は豊かな土地で孫堅も容易に突破できないことが想像され、その間に袁紹が公孫サンを撃破、ここに来て強大になった孫堅と曹操を退けたいという思惑が一致し、袁紹と袁術は手を組みます。対抗するため、曹操・孫堅も連合し、強力な軍事力を持つ袁紹・袁術を乾坤一擲の戦いで撃破、数年を要しながらも残党も討伐します。諸葛亮は兄の強い勧めで孫呉に仕官し、諸葛亮を得られない劉備は孫堅の客将になるでしょう。
袁術滅亡~南北朝時代へ
- 208年~209年、曹操多方面から孫呉に侵攻するも、孫策・周瑜ら若い将軍に苦戦し撤退。
- 210年~213年、孫堅、益州に侵攻しこれを陥落させる。曹操、涼州と漢中の張魯を併合する。
- 214年、曹操、魏王に即位する。
- 215年、孫堅、劉備を帝位につけ呉王に即位する。
互いに敵がいなくなった孫堅・曹操の大規模戦役は痛み分けに終わります。曹操の撤退を受け馬超が反乱を起こすと、討伐の間に孫堅は劉璋を撃破、益州を手中に収めます。天下2分の様相を示した中で、曹操は魏王に即位。孫堅は家柄が悪く王に即位する資格がないため、劉備を帝位につけ呉王に封じさせることで曹操に対抗、時代は一足早く南北朝時代へと移っていくのであった。。。
まとめ
大好きな孫呉政権について考察(妄想)してみました。孫堅ってゲームでは万能型で滅茶苦茶強いですけど、家来に知将がいないので、周瑜が成人するか、魏の軍師を登用出来ないと結構苦労するんですよね。こういったことが袁術から独立出来なかった一因なんじゃないかなと思って、こんなifを考え、しかも記事にしてしまいました。孫呉はマイナー扱いされることが多いので、偉大な孫堅のことも、少しでも知ってもらえれば幸いです。
伴野朗『呉・三国志』全10巻セット (集英社文庫)